本を読むのは楽しい
先月、こんな本を図書館で借りて読みました。
書き手は、福岡で学習塾を主宰する鳥羽和久さんという人。
わたしは書評の類に目を通すのが好きで、この本も何かで紹介されていて、興味を持って図書館で予約したのだと思います。もう、どこで目にしたのか忘れてしまいましたが…。
あ、書評だけじゃない、書籍の広告欄とかもすごく好きです。
タイトルと出版社から、「これは面白そう」というものを見つけるのが愉しいんですよね。
で、とりあえず地元の図書館にあればすぐ予約する。
で、届いたらとりあえず読む。
「面白そう」と思う基準は、もともと好きで興味のあった分野か、あるいはまったく関心のなかった分野のどちらかのことが多いです。
あとは、好きの反対の「嫌い」だったり(食わず嫌いを多いに含みます)、「なんでこう考えるの?」と違和感を覚えるものだったり。
「なぜ?」が気になり、どうしても知りたくなってしまうのです。
本は、自分とは全く違う視点や、流行なんかについて、知識や情報の詰まった宝庫ですからね。
日頃からいろんな情報や視点にふれて、自分も多角的に考えたり、制作物をアウトプットする際の糧にできればと考えています。
で、すらすらと読める本は、わたしにとっては図書館で借りて一読すればOK。気になったフレーズがあれば、手帳やノートにメモして終わり。
いっぽう、今日紹介するこの本のように、いちいちつっかえつっかえ、書かれていることを咀嚼しながらじゃないと読めなかったり、「そうそう、そうだよね!」と端々で幾度となくいたく感心して、しみじみ味わい尽くしたくなってしまう本は、買って本棚の仲間に入ります。
ちなみに、図書館にもなくて、でも「これは絶対読むべきやつ!」と思うものはやはり本棚の仲間入りです。
読むのが楽しくない(イタイ)本もある
前置きが長くなってしまいましたが、この本です。
『おやときどきこども』鳥羽和久著
一体この本の何が、読み進もうとするわたしをいちいちつっかえさせたかというと。
それは、一言で言えば、親という人間の「弱さ」。
どんな親だって、子どもを育てる力に自信がないんです。
いつだって、子どもを通して自分に責任問題が降りかかることを怖れているんです。
だから、周囲に対して「わたしはいい親です」「いい親やってます」「子どものことは何でもわかるんです」という顔をするんです。
ほら。
ここまで聞いて、「イタタタタ……」ってなりませんでした?
わたしはなりました。
何度も何度もなりました。
それで、読み進むのにたいへん苦労しました。
いちいち自分に刺さるから。
あんな場面や、こんな場面を思い出して、思い当たることだらけだから。
周囲の目を気にして、「ちゃんとわかっている親」のように振る舞おうとしたり、「常識のある大人」を演じたり、取り繕ったり。
いま思うと子どもに対して申し訳ない気持ちになります。
ほかにも、
「親は自分の現実にとらわれず、子が住む新しい世界に目を開くこと。自分の現実に子を引き寄せすぎることで子が不自由な生き方を選ぶのは取り返しがつかない」
という、わたしにとって印象深い一節もありました。
「親の負債を子に背負わさない」
という一文もありました。
これは、自分のことは自分でケリをつける、子どもに転嫁しようとしない
ってことでしょうか。
ほんにほんに、親であるのは責任重大だし、場合によっては子に取り返しのつかない傷を負わせたりもする、かくも罪深い存在なのだなぁ。
できることは、寄り添うこと
じゃあ、親たるわたしは、この先どうしたらよいのか、一体どのように子に接したらよいのか、いうと。
著者は、「大人が何か明快な答えを用意してあげないといけないと思うのは、親の思い込みだ」と言います。
「子を良い方向に導いてあげないといけない」と思うのは思い上がりだ、ということでしょう。
導けるはずがない。
先回りもできない。
まずは、親が、弱い自分を認めること。
弱い自分というのは、「世間体を気にする自分」や、「未解消になっている自身の不安」。
そして、子どもの心なんてわかるわけがない、という事実を認めること。
子の心をわかりたい、わかっている、と思うからこじれるのだ、と。
子どもの心はわからない。
わからないからこそ、親ができるのは、ただ子に寄り添うことだけ。
最終的には、そういうことのようです。
親もときどきは、子どもだったときの自分を思い出してね、というのがタイトルに込められた著者のメッセージ。
とても含蓄に富んだよい本だと思うので、もっとたくさんの親御さんに読んでほしいと思います。
きっと救われる親も子もたくさんいるはず。
イイトコでも販売したいくらいです。
機会があったら手に取ってみてください。
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